ちょっと時代おくれな社長の一言

ひとこと ~第七回~

年が改まりました、今年もよろしくお願いいたします。

私の生まれ在所の話を聞いていただこうと思います。私の生まれたところは信州の佐久(さく)というところです。

今の住所では長野県南佐久郡佐久穂町となりましたが、昔は、大日向村(おおひなた)という名前でした。父はそこで大正6年に7人兄妹の3番目(次男)として生まれ、母は隣の八千穂村(やちほ)で同じく7人兄妹の3番目(次女)として大正9年に生まれました。

父の妹と母の兄が結婚したため交換するような形で父と母が結婚することとなりました。昭和19年の結婚でしたので、晴れやかなことは何もなかったそうです、もちろん写真もありません。その後すぐ父は徴兵されて満州へ行ったため母は実家で父の帰りを待っていたそうです。

母は結婚前は東京の大学病院で看護師をしており、母の父は村の助役をしておりました。終戦の年(昭和20年)の秋に父が帰ってまいりました。

戦地でイギリス軍の捕虜となり香港で解放されたそうです。体中ノミとシラミだらけで着ていたものは全部煮沸したそうです。

父の兄は満州でソ連軍の捕虜となりシベリヤに抑留されて、生死不明のまま昭和30年に死亡ということになりました。

私は昭和21年(1946年)に大日向村で3人兄弟の長男として生まれました。

当時の村は冬になると零下10度ぐらいになります。雪はさほど降りませんがとてもさむいところで、川は氷が張ってしまうため一部氷を割って洗濯や水汲みをしたそうです。

家の中は囲炉裏と炬燵だけで外とは障子一枚だけの仕切りで雨戸はありますが冬は氷ついて開かなくなってしまうため使えませんでした、そのため家の中でも0度に近い温度で寝るときは家族全員が丸く炬燵を囲んで足だけ入れて顔は手拭いをほっかぶりして寝ました。

産業といえば炭と薪の出荷ぐらいしか収入がなく、平らな土地もないため自分で食べるぐらいのものしかつくれませんでした。

そんなところで3人の子供を抱えて生活するのは並大抵でなく、父の妹夫婦が東京の高円寺で商売をしていたため義弟を頼って一家5人で東京へ出てきました。昭和27年11月のことです。

平成26年2月

つづく

 

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